徒然なるままに ~大リーグ今昔噺~

 

徒然なるままに ~大リーグ今昔噺~

 WBCの影響もあるのでしょうが、今やメジャーリーグの日本人選手のニュースが“無い日が無い”ですね。ちょっと指を折ってみても、大谷を始め、ダルビッシュ有、前田健太、鈴木誠也、菊池雄星、更に今年からは、吉田正尚、千賀滉大、藤波晋太郎と枚挙に暇がありません。日本選手の力が上がったのか、メジャーの平均的な力が落ちて来たのか彼我のレベルを計りかねています。

 遡ること44年、アメリカ大リーグ視察に行った時、日本人選手は一人も居ませんでした。1979年のシーズンオフ、メジャーリーグオールスターが来日して、ア・ナリーグ対抗の試合をする事になり、当時の西宮球場と後楽園球場では全日本との試合が組まれました。私はプロ野球中継をメインの仕事にしていたのですが、ある日上司から「西宮の試合を中継するので大リーグ視察に行ってこい」と命じられました。1975年に阪急ブレーブス優勝記念でハワイ取材旅行に行った事はあるのですが、アメリカ本土は初めてです。9月30日、スポーツ部のディレクターと二人、成田を発ちました。現地で、解説の吉田義男さんやフジテレビのスタッフと合流する事になっていて、アンカレッジ経由でニューヨークに向かいました。

 当時フジテレビは、数人のディレターと岩佐アナウンサーを常駐させていて、ロスアンジェルス在住の中上英雄(元讀賣ジャイアンツの藤本英雄)さんの解説でシーズン中、メジャーリーグ情報を放送していました。民放、NHKを問わず大リーグ中継の先がけだったのですが、大きく実らないままに終わってしまったのは今にして思えば残念な事です。

 さて私たちはニューヨークのホテルでアメリカン・ナショナル両リーグのプレイオフをテレビ観戦した後、エンジェルスとボルティモア・オリオールズのプレイオフを見るためロスアンジェルスに飛び、その後は、ピッツバーグ(パイレーツ)とボルティモア(オリオールズ)を往復してワールドシリーズ観戦という旅になりました。

 記者席で観戦できる時はクリデンシャルという首からぶら下げるチケットを貰います。入場券と食事券がセットになっているチケットで、球場横に作られた巨大テントで山海の珍味が食べ放題。報道陣、試合関係者が続々やって来てワイワイ言いながら食事をしてスタンドに戻っていきます。これだけでも圧倒されたのですが、中継車を見せてもらって更にビックリ。

 トレーラートラックのような巨大な中継車の中には20台以上のモニターテレビがずらりと並んでいます。球場内には至る所にカメラが設置されて様々な角度からの映像が漏れなく入ってくる仕掛けです。ディレクターの数も半端ではなく、自分が担当する何台かのモニターからベストショットを次の段階のディレクターに挙げてきます。こうして選りすぐられた映像が瞬時に放送されるという、日本では考えられない仕組みになっていました。

 入場証を持っていると球場にも入れます。日本の埃っぽい球場を仕事場にしてきた私たちから見ると、アメリカの球場は絵にかいたように美しく、観客は試合もさることながら球場の施設自体をも楽しんでいるようでした。入場証をもらえない時はスタンドでの観戦ですが、ボルティモアで、お馴染みのホットドッグを食べながら地元の人と一緒に楽しんでいた時、5、6才の男の子を連れた初老の男性に話しかけられました。日本に旅行した事があるとかで、好印象を話してくれました。大いに嬉しく、正に「片言」の英語で会話しました。再会を約して別れたのですが、その時は本当に会えるとは思ってもいませんでした。ワールドシリーズはもつれて7戦に突入、私たちは再びボルティモアへ、そしてスタンドで本当にその男性とお孫さんに「再会」したのです。

 驚きましたが、当時球場では日本人の観客など一人も見当たらず、機会があれば見つけやすかったのかな、とも思いました。男性は何と、私とディレクター2人分の皮の財布と手袋を土産に用意していたのです。会えるかどうか判らない初対面の異国人に。嬉しかったですねぇ。

 帰国後、西宮球場で中継をしました。吉田義男さんの解説、パ・リーグ広報部長で大リーグ通の伊東一雄さんがベンチリポーターで楽しい中継でした。この試合は惜敗しましたが、後楽園球場では、島谷金二の3ランホームランで逆転勝ち、全日本が勝ったのは1851年以来だったそうです。メジャーと日本の野球の今昔物語でした。

関西テレビOB・出野徹之

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